エベレスト・カラバタール(前編)
山行情報・担当者
ランク:B-C-8:00 参加:20名
山行担当:CL 2805 SL 2841 2900 3060 3080
記録担当:文責 2805他11名 写真 2805 3060 3338 2107 ビデオ 2107 3060
旅程表・地図
山行記
10月29日(日)〜11月17日(金)
構想から約1年、長期にわたる大規模エベレストトレッキングが無事終了した。 全行程19日間(10月29日深夜~11月17日早朝)のうち13日間のトレッキングで、20人のメンバー中18人が2日間にわたりカラパタール(5,545m)に登頂した。そのうち8人はEBC(エベレストベースキャンプ、5,361m)までを往復、残る2人も5,150mの泊地まで自力で到達し、大きな成果を上げることができた。
冷たく薄い空気、極端な乾燥、慣れないロッジの連泊など長期間の厳しい環境で食欲不振や呼吸器系統などの体調不良に悩まされたメンバーも続 出したが、苦しいアタックを何とか乗り越えられたのも「みんな一緒に登るんだ」との仲間意識が強く働いた結果であろう。チーフガイドは下山時に各ロッジで、「日本のチームはすごい、全員登頂した」(アタックした全員との意か)と自慢気であった。
20人の構成は60歳代12人、70歳代8人、男性8人、女性12人で脚力、体力に相当な幅があったが、チーフガイドの工夫された登山日程と、最初からスローペースであったことが最後に効果を 発揮し、成果につながった。
スタッフの陣容はガイド5人、ボランティアガイド1人(ネパール語通訳、ネパール渡航歴18年、カラパタール登頂2回)、ポーター1人、荷役の主役ゾッキョ6頭とゾッキョ御者1人であった。
メンバーは各SLごとに4班体制とし、隊列はガイド、ボランティアガイド、各班、CLは常時最後尾とし、各班は2日間(一順後は1日)で先頭を入れ替わった。
初期に現れるタムセルクや一番露出度が高いアマダブラム、そして7,000m級から8,000 mのクーンブ山域核心部へ。世界の屋根の迫力を終始十分に堪能した13日間であった。(記:2805)
1日目(10/31・水) ルクラ(2,840m)~パクディン(2,652m)
無風、快晴、強い日差しで暑いくらい。朝食の後メンバー紹介などをし、大キャラバンがスタートした。11月間近で標高3,000m近くというのに、緯度が低いためか周りの景色は日本の5、6月頃の里山のようである。
「エべレスト街道」の名前の由来は、通常の登山道ではなく、ルクラからエベレストの麓まで続く沿道住民(多くは農民やあるいはトレッカー相手のロッジのオーナーなど)の生活道として使われてきたもの。そのため道幅は大人が2~3人から5~6人並んで歩けるほどの綺麗な石畳や大きな岩のゴロゴロした道が続く。「エべレスト街道」はネパールでも一番人気のトレッキングコースで、世界中からの多くのトレッカーで賑わっている。
トレッカーのほか物資運搬のポーター、ゾッキョや馬が激しく往来し、また街道上の大量の糞を踏まないように歩かなければならず、ガイドの交通整理が必須で、結構時間がかかる。
トレッキング初日で、 まだ高い山は見られないが,スタート地点から200m下ってきたので、「これを最終日に登り返すのは結構しんどいな」とい う感じを受けた。(記:1872)
(写真をクリックするとスライドショーで見ることができます)
2日目(11/1・木) パクディン(2,652m)~ナムチェ(3,440m)
今日も昨日同様、谷沿いの道をドゥード・コシ川に沿っていくつかの吊り橋を渡り徐々に登っていく。この川はエべレスト氷河を源流とし、色は氷河で削り取られた砂礫が混ざり、日本の川のような透き通った緑色ではなく、白濁色をしている。最後のつり橋を渡ったところから、今回の核心の「ナムチェの急坂」が始まる。
ナムチェはシェルパ族の村で、ネパールでも山岳民族最大の町である。「エベレスト街道」トレッキングのカギの一つが、このナムチェの急坂をビスターリビスターリで(ゆっくりゆっくり)歩き、高度の呼吸法、足の運び方等を習得するのが重要と言われる。そのため日本のツアーでは、最初の高度順応と生活順化(乾燥、低温、食事等)のためナムチェで連泊するケースが多い。
ナムチェに近づくにつれ、時々右側にタムセルク(6,648m)、左側にカンテガ(6,809m)、時々その真ん中正面にエべレストやローツェが木々の合間から遠くに眺められる。6,000mを超える山々が見られるのは、やはりヒマラヤの醍醐味と言える。ナムチェは馬蹄形の階段状をした地形に多くのロッジ、レストラン等が建てられている。5~6階建ての立派なロッジもあり、建物もカラフルに塗られている。2015年の地震では大きな被害を受けたようだが、ネパールの重要観光資源でもあり、その後の新築、改修等も最も進んでいるようだ。(記:2841)
3日目(11/2・金) ナムチェ(3,440m)滞在(高度順応)
高度順応のためエベレストビューホテル(3,840m)へ。このホテルは宮原巍さんが多くの協力者とともに、建設された。生憎エベレストは雲の中だったが、タムセルク、アマダブラムなどをバックに、テラスで飲んだレギュラーコーヒーの美味しかったこと。
シャンボチェの丘にある飛行場では、ロシア製の飛行機が止まっている。 周りにはたくさんのボンベや拡張工事のための建築資材が置いてあり、工事関係者が泊まるテントが並んでいた。 ゆっくり下山し、午後はナムチェバザール散策と なった。(記:1876)
4日目(11/3・土) ナムチェ(3,440m)~タンボチェ(3,867m)
2日間滞在したナムチェを後に、晴天のなか8時30分出発。タムセルクの圧倒的な存在感を感じながら、しばらく行くと先頭が騒がしい。国鳥ダフェが至近距離で姿を現している。ナムチェの登りでも見たが遠い林の中、この辺が生息地であるらしい。
今日はそれほど高低差がないと思ったら大間違い。3,200mまで下りレストランで昼食後、標高差600mをひたすら登り、ようやくタンボチェの寺院に3時過ぎ到着。17時から結構寒いなか寺院 を見学。僧は村に出向いており高僧にも会えなかったが、バラカジガイドはチベット仏教の話になると熱がこもる。仏教3つの流れの中で世界に広がる教義を持つ流派が主流とのこと(大乗仏教のこと?)や男女とも2番目に生まれた子が僧になる慣習、近くに尼僧の寺院があるとのこと。(記:1689)
5日目(11/4・日) タンボチェ(3,867m)~ディンボチェ(4,343m)
7時朝食、8時出発のいつものリズムで歩き始める。高度もそれ程きつくなく雪に輝くアマダブラム、カンテガの優美な姿を眺めながら順調に歩く。最初の長い吊橋を渡り、サマレでシェルパシチューのランチ、野菜たくさんの胃に優しいシチューで美味しい。ランチ後はイムジャ・コーラの沢沿いに歩くとのことで一枚重ね着をする。2つ目の吊り橋を渡ると急登になり、一歩一歩ゆっくり歩く。高度が除々に上がり息が切れる。ようやく平らになりディンボチェの村が見えてきた。
ガイドがあ と 30分と言い、ネ パールの歌を歌って元気付けてくれた。村に入 ると沢が流れていて、細い道をロバや牛や人も譲り合いながら一緒に歩く。現地の人の生活道路なんだと実感する。村の奥のロッジまでが遠く感じられ、着いたときには全員ホッとする。(記:2569)
6日目(11/5・月) ディンボチェ(4,343m)(高度順応)
朝6時ロッジ室内の気温-5℃、窓のカーテンを開けると無風快晴、昨日午後から雲で全く見えなかったアマダブラムが川を挟んで正面に大きく迫って見える。朝食はコーンフレークにゆで卵で食べやすい。日中は良い天気になりそうだ。
今日は泊地ディンボチェの北側に聳えるマイナーなポカラデ5,806m峰の途中5,000m付近まで標高差650mの高度順応の予定だ。ロッジ背面の登山道を少し登ると峠の上に出る。明日の泊地ロプチェに向かう登山道を左に見送り急坂を登ると東側の展望が開ける。皆写真撮影に忙しい。鋸歯状のヌプツェの右にはローツェが雪煙をたなびかせて見えるがエベレストは見えない。更に右に続く雪稜がナンバーエイト、アイランドピーク、白い三角形のチョプレ、その右奥にマカルーの 8,000m峰とガイドのバラカジさんが山の名称解説をしてくれる。このコースは他の登山者も高度順応で登る人が多く渋滞気味だ。
高度4,700m付近で昼食の予定から時間切れとなり、集合写真を撮り下山した。午後は明日以降に備え自由時間となった。(記:2247)
7日目(11/6・火) ディンボチェ(4,343m)~ロブチェ(4,910m)
朝8時、真っ青な空のもとアマダブラムを左に見ながら1時間登ると、前方にタウチェ(6542m)が現れる。峠に着くとヤクが草を食べ、ホッと一息。間もなくアマダブラムを背にタウチェなど7,000~8,000m級の峰々を身近に感じて歩いて行くと、谷の向こう側に昼食で立ち寄るトゥクラが見えてくる。そして前方には真っ白な姿が美しいプモリ(7165m)が顔を出す。6,000~7,000m級の峰々を楽しみながら峠に着くと、5色のタルチョ(祈祷旗)の下にチョルテン(エベレスト登山で亡くなったシェルパの墓が立ち並んでいた。日本人名を見つけ「安らかに」と思いながら歩を進めると、正面には先程の白く輝くプモリが大きな姿で私達の目の前に現れる。そしてエベレストは見えないが鋭いピークを突き立てているローツェ()南岳8,516m)やヌプツェ(西岳7,879m)を見上げながら宿泊先のロブチェに向かう。到着後、防寒をしっかり整え、クーンブ氷河を見に行く。(記:3046)